帚木 はゝき木

《ははきぎ》

園原のシンボル

 帚木は伏屋と共に園原のシンボルとして伝承や歌枕にその名を留めている名木です。村道の「ははき木」の案内板の所から、山道を約200mほど登った尾根のやや東に傾いた場所にあります。桧の老大木で幹が二又に分かれていて、その先は広がっていて帚のように見えたところから「帚木」といわれ、また遠くからは際立って見えるが近寄るとどの木であるか分からなくなると言われた。このことからその不思議な木が、人の心の不確かさ、迷い、物事の有無など「在る様で無いこと」の例えに使われ、都において多くの歌等古典文学に使われました。

 

 

その原や伏屋におふるははき木の ありとはみえてあはぬ君かな

905年 歌合 坂上是則 「新古今和歌集十一」(最初に帚木を詠んだ歌)

 

ははき木の心をしらで園原の 道にあやなくまどひぬるかな    光源氏

数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆるははき木  空蝉

紫式部の「源氏物語」五十四帖の第二「帚木」の巻名になり、雨夜の品定めの後に詠まれた歌。

 

 

伝説では、園原の炭焼喜籐治の元へ神のお告げで嫁いで来た京の在原の息女客女姫が夕方の空を眺めて母を恋しく思っていると、母の手招く姿が見えたので思わず駆け寄ろうとしたら、それはははき木が風に揺れているのであった。それから「母木木」と言われる様になったと言う。この帚木も大正時代に片方が折れ、残りの支幹も昭和33年9月の台風で倒れてしまい、数mの枯死した根本周りを残すのみである。